今でこそ山岳写真や星景写真、カメラレンズを使用した星野写真ばかり撮るようになりましたが、私はフィルム時代から一般的な風景写真を主に撮っていました。
撮影対象は多岐にわたり、(登山を必要としない)山並みや街並み、社寺仏閣、海、砂丘、滝、渓谷など、そして季節ごとに桜や新緑、紅葉、雪景色も絡めて撮影していました。
なかでも田園風景はとても好きで、美しい棚田や広大な田園の景観に魅せられました。日本は主食がお米だけあって気候風土も稲作に適し、その田園風景もまたたいへん美しいわけです。小麦の生産が盛んな米国の広大な小麦畑が美しいのも同様と言えます。
そんな田園風景、一番美しくこころに残る情景はやはり秋の収穫の時期のように感じます。稲刈りに伴う藁の匂い、はさがけ(稲掛け)、積み藁…、日も短くなり西からの斜陽を受けてそれらが黄金色に輝きます。
その黄金の時期を迎える少し前、暑かった夏の日々から少しずつ涼しい空気に変わった頃、田んぼの畦道を朱色のヒガンバナが美しく彩ります。
『夏が終わってしまう…』
山に登るようになって嫌いだった夏も好きになり、下界で群生するヒガンバナを見ると“祭りのあと”のような一抹の寂しさを感じます。
ヒガンバナ、別名を『曼珠沙華』と言い仏教の観点では天上の花の意味もあわせもっています。そういったこともあり私はこの花を見ると、夏の終わりという季節の節目を感じると同時に別れ、死ということを連想します。それはつまり儚さでもあります。
美しいとは、すなわち“儚さ”でもあると日々写真を撮っていて感じます。その“儚さ”がなければ美しさもないと…。
そして人生もまた儚いもの…、また美しいもの。
夏の終わりに畦道や道端に咲くヒガンバナはそう私に語りかけているように感じます。