2019年8月 新穂高温泉~双六岳~黒部五郎岳~雲ノ平
新穂高温泉から小池新道を経て、双六岳から三俣蓮華岳を経由し“仙境”黒部五郎岳へ。そして北アルプス最後の秘境、雲ノ平へと至るアーカイブ(前編)。
※本アーカイブに使用している写真には一部過去に撮影したものも含まれています。過去に撮影されたものは注釈に日付を入れてありますのでご了承ください。
目次(前編)
- 北アルプスの『仙境』、黒部五郎カール
- 長大なる小池新道
- 北アルプス屈指の槍ヶ岳展望台、樅沢岳
- 双六岳から三俣蓮華岳へ
- 『仙境』黒部五郎のカールと星空
- 『星々からのインヴィテーション(Starry Night Invitation)』
北アルプスの『仙境』、黒部五郎カール
私はここ数年、あるひとつの大きなテーマを撮影すべく毎年のように黒部五郎岳を目指して入山しています。この山を初めて訪れたときに受けたその感動と衝撃に、私は一瞬にしてこの山の虜になりました。
『黒部五郎のカール』
その景観はまさしく大地が生成された時代のまま時間が止まったかのような錯覚さえ覚える雄大で無垢で、神秘的な空気で満ち溢れていました。
『日本にまだこんなところがあるのか…』。
私はそれまで北アルプスをはじめとして南アルプスや八ヶ岳、奥秩父、そして越後や東北の山々などを歩いてきて多くの美しくも雄大な景観に心震わせて来ましたが、黒部五郎カールはそんな私に改めて真の自然の美しさを見せつけてくれました。
私にとって黒部五郎のカールはもはや時を超越した、まさしく『仙境』でした。
五郎のカールと天の川
その黒部五郎岳に魅了された数年前、ちょうどその頃から私は星の写真も本格的に撮り始めました。それまでも撮ってはいましたがまだまだ知識も技術も無く、ただ何となく撮っていただけでした。それこそ闇雲に山や星空にカメラを向けて撮っていただけで、とてもとても作品と呼べるものは撮れていませんでした。
その後経験を積みながら知識や技術を少しずつ高めて、星景写真だけではなく赤道儀を使って追尾撮影をするいわゆる星野写真も始めました。少しずつではありますが私なりに満足のいくものも撮れてきていました。
そしてある素晴らしいテーマを撮影してみたいと思いつきました。季節や方角から考えて、きっと美しい雄大なる黒部五郎のカールに沈みゆく夏の白鳥座の天の川を撮れるに違いない、と。
困難の極み“山岳星景”
ただその構想から数年。
このテーマの撮影はなかなか困難だと悟りました。もっとも困難だったのがやはり天候でした。過去数回撮影を試みたのですが、頭上こそ晴れて星が見えていてもその特徴的な地形のためなのかカールにガスがずっと滞留し続けたり、稜線上だけに雲がかかったりと、なかなかベストな状況で撮影できない年が続きました。そもそも晴れずに星どころではない年ももちろんありました。山の天気はまったく予想することが不可能でした。そしてこればかりは残念ながらどうすることも出来ないことでした。
さらに天の川の撮影となると天候のほかに月齢の問題もありました。ある年は晴れてはいましたが残念ながら入山日が満月期だったこともありました。
しかしようやく今回、月齢も含めて日程的にぎりぎり撮影できそうなチャンスが巡ってきました。あとは夜間の天候。これはもう山の神に委ねるしかありません。今年こそ撮らせてくれるのか、それともまた来年以降に持ち越すのか。準備も含めてやるべきことはしっかりやって、あとは神のみぞ知るというわけです。
長大なる小池新道
いきなりの難関、新穂高温泉
黒部五郎岳や雲ノ平を目指すにはいくつかのルートがありますが、私は大好きな双六岳を経由したいのでいつも小池新道ルートを使っています。小池新道は新穂高温泉を起点として左俣谷に進み、鏡平を経て双六小屋へ至るルートですが、起点である新穂高でいきなりの洗礼を受けます。
私は山へ行くときはその利便性から公共機関ではなく自家用車で移動するのですが、この新穂高の登山者用駐車場に一度も駐車できたことがありません。行く度にいつも満車で、新穂高ロープウェイの鍋平付近の登山者用駐車場まで回らなければなりませんでした。この日もご多分に漏れず鍋平に駐車しました。ここ数年の登山者の急増のためか鍋平の登山者用駐車場も以前よりかなり拡張されていて、鍋平にも止められないという悲劇は回避できました。
この駐車場から新穂高の登山口までは歩くと結構な距離になり、しかもいきなり泥濘も一部あるような森の中を下って行くので新穂高の登山口に着く前にすでにそこそこの体力を奪われてしまいます。
長い林道歩き
新穂高温泉の登山口からは滝谷や槍平へ向かう右俣谷を分かち、左俣林道を進みます。この林道がとても長く、上高地から徳沢や横尾を目指す長い林道歩きに匹敵するかのような長さを感じます。林道終わりまでの標準コースタイムは1時間半強、ウォームアップにはあまりにも長い林道です。
途中、笠ヶ岳に至る笠新道登山口やわさび平小屋を経て奥丸山との分岐となる橋まで来るとようやく本格的な登山道が始まります。
この長い長い林道の途中にある山小屋でまさに林道歩きの疲れを癒すオアシス的存在。沢から引かれた冷たい水にきゅうりやトマト、果物などが冷やしてあったり、食事をしたり、トイレを利用したりゆっくりと休憩することが出来ます。テント場もあるのでここに昼過ぎに到着し野営し、ここを起点として改めて翌朝出発するのも良いかもしれません。小屋に宿泊すればお風呂も入れるようです。
鏡平からの槍ヶ岳の絶景
鏡平までのなだらかな登りでは途中途中に程よい休憩ポイントがあります。秩父沢にかかる橋では火照った体を沢水で冷やせますし、シシウドヶ原には眺望が開けたベンチもありゆっくりと休むことが出来ます。
この小池新道、急登はほとんど無くとにかく延々となだらかな登りが続くという感じです。
この日は気温の上昇とともに体力を著しく奪われ、とくに秩父沢からシシウドヶ原の間はまったくペースが上がらず、かなりつらい登りになりました。原因はやはり暑さによるものが大きいですが、体内の塩分が汗とともに流出したことも影響していると思われ、今後の夏山では塩飴の活用や水分補給は水ではなくスポーツ飲料にするなどの対策を考えたいです。
鏡平まで詰めれば槍ヶ岳・穂高岳方面の展望が開け、その鏡池越しの絶景に一気に疲れが吹き飛びます。風が無ければ池に映る槍ヶ岳のリフレクションを楽しむことが出来ます。
小屋前の休憩スペースは広くてベンチも多いのでここでゆっくり体を休ませたいものです。鏡平小屋は休憩や宿泊のみ受け付けていてテント場がありませんので、テント泊組は双六小屋までその日のうちに歩かなくてはいけません。
しかしここまでくればあと一息で双六小屋です。
鷲羽岳の眺望が素晴らしい双六小屋
鏡平小屋から少々きつい登りを経て弓折乗越まで到達すればもう稜線となります。稜線からは北側に双六岳が雄大に聳え、樅沢岳から槍ヶ岳に繋がる西鎌尾根の眺望が素晴らしいです。そしてもはや遥か眼下となった深い左俣谷からの槍ヶ岳の急峻なせり上がりが見事です。
稜線を進むと樅沢岳と双六岳の鞍部に建つ双六小屋が色とりどりのテントが張られたテント場とともに見え、ようやく長い長い登りが終わったと安堵の感情がこみ上げてきます。
そしてその鞍部の先には威風堂々たる鷲羽岳が鎮座しています。双六池湛える双六小屋のテント場はとても広く比較的平らな場所なのですが、立地的に縦走の“要衝”と言えるのでたいへん混み合います。
北アルプスの数あるテント場の中でもこのテント場はロケーション的にも張りやすさ的にもたいへん素晴らしいです。小屋にも近く、飲み水も豊富ですし、ペグも刺さりやすくてフラット、テント場自体もかなり広くて、何より鷲羽岳の眺望も最高です。
私はいつも夕景や日の出はこのテント場から樅沢岳まで登って撮影しています。とにかく樅沢岳からの眺望はたいへん素晴らしく、西鎌尾根を有する槍ヶ岳の見事な山容が登山の疲れを癒してくれます。
北アルプス屈指の槍ヶ岳展望台、樅沢岳
樅沢岳
樅沢岳(もみさわだけ)は双六小屋から槍ヶ岳へと続く西鎌尾根の最初の山で、標高は2,755m。双六小屋からだいたい3,40分で登ることができます。
槍ヶ岳の展望台と言えるところはいろいろありますが、北アルプスの中でも樅沢岳は展望台として間違いなくトップクラスと言えます。とにかく槍ヶ岳が近いことと、なんといっても角度的に荒々しい北鎌尾根が見事で、反対側の大天井岳や常念岳から眺めるのとはまた違った槍ヶ岳を堪能することが出来ます。
私は過去、この樅沢岳で朝夕のとても美しい槍ヶ岳を撮影できたことが何回もあって、ここからの槍ヶ岳を撮るためだけに1泊2日で長大な小池新道を登ったことも何度もあります。
テント派?小屋派?
私は山を本格的に始めてからすぐにテントを購入し、ほとんど泊まりはテントを使っています。小屋は小屋でとても良いのですが、テントのほうがやはり撮影時間の融通が利きます。
朝や夕方など写真栄えする時間帯(マジックアワー)はちょうど小屋の朝食や夕食の時間と被ってしまいますし、いざ夜間に星を撮りに行くにもテントならば入り口のジッパーを開ければそこはもう満点の星空です。
この自然とのダイレクト感や撮影の自由度はやはりテント泊ならではです。ただ昔に比べて軽量になったとは言えテント一式とシュラフ、マットやガス・コッヘルなどその他もろもろをすべて担がなくてはならないので、体力的にたいへんな部分ももちろんあります。『小屋泊にすればそのぶんもう1、2本レンズを余分に持っていけるのに…』と思うこともしょっちゅうあります。
今回は機材やテント、食料など総重量26.5kgを担ぎましたがもう自らの限界を完全に超えていました。撮影目的の方々の中には30kg超えの方もたまにお見受けしますがまったくもって信じられません。今後はもう少し荷物の取捨選択をして軽量化を図るつもりでいます。個人的には25kgというのがひとつの基準であると改めて思いました。
双六岳から三俣蓮華岳へ
双六岳台状稜線の絶景
樅沢岳と同様に夜明け前に双六小屋から双六岳への急登に息を切らせばとても美しい山岳風景に出会えますが、今回は双六岳での夜明けの撮影は最終日とし、樅沢岳での早朝の撮影を終えたあとにテントを撤収して双六岳に向かいました。
双六岳はとてもユニークな山容をしていて、小屋からの急登を登り切ると山頂までは平らな高原状の稜線になっています。そのなだらかな稜線を山頂付近まで進んで振り返ると、歩いてきたその稜線の背後に北鎌尾根を従えた槍ヶ岳がまさに屏風のように雄大に聳えています。そのなだらかな美しい稜線と西鎌尾根が重なり合い、槍ヶ岳へのプロムナードを形成しているようで本当に素晴らしい山岳風景を見せてくれます。
私はここからの槍ヶ岳が一番美しいと思っていて、何度来ても、何度撮っても飽きることがありません。その日の天候によって様々な表情を見せてくれて決して同じものは撮れません。
この風景は広大な北アルプスにおいて、間違いなく最も美しい山岳風景のひとつと言えます。
この美しさはもはや言葉では言い表せないもので、神が山を使って創り上げたアート作品とさえ思えてきます。
双六岳山頂からは槍ヶ岳方面の他にもこれから向かう三俣蓮華岳方面や笠ヶ岳方面、そして黒部五郎岳から北ノ俣岳方面の眺望もとても美しいです。
北アルプスの中心、三俣蓮華岳
双六岳から三俣蓮華岳まではとても開放的な稜線歩きのルートとなります。緑の美しい山肌には夜露を浴びたチングルマの綿毛が朝の陽光を受けきらきらと輝いています。
西には日本で最も美しいカール『黒部五郎カール』を有する黒部五郎岳が、北には薬師岳や水晶岳、眼前に迫る鷲羽岳が、そして振り返れば槍ヶ岳や穂高連峰が聳え、北アルプスの名峰たちに囲まれながらの贅沢な稜線歩きとなります。
そしてもはやここまで歩いてくると稜線に立っても街はもうほぼ見えません。完全に『山の中にいる』という感じで、北アルプスの中でも最奥のエリアに入っていると実感できます。
三俣蓮華岳はそれほど特徴的な山容ではありませんが、その名が示すとおり三国の要衝の山です。信州(長野)・飛騨(岐阜)・越中(富山)の三県はこの山を境に分かれています。そのためまさに360°、遮るものの無い素晴らしい展望が広がっています。
『仙境』黒部五郎のカールと星空
三俣蓮華岳から右手に雲ノ平を眺めながら稜線をなだらかに下ると、いよいよカールを従えた黒部五郎岳が眼前に迫ってきます。黒部五郎小舎へは最後、一気に高度を下げれば程なくして到着します。
黒部五郎小舎
北アルプスには多くの山小屋があります。大きな山荘からこじんまりとした山小屋など特徴も様々ですが、個人的には小さくて控えめで自然の中にうまく溶け込んでいるような山小屋が好きです。この黒部五郎小舎はまさにそんな山小屋で、三俣蓮華岳と黒部五郎岳の鞍部に建てられ、どこか牧歌的で雰囲気も良く、なにより三俣山荘や双六小屋に比べて人が少なくて静かです。
双六小屋のテント場で周りの方に伺った折、そこから西鎌尾根を進んで槍ヶ岳に向かう方や三俣山荘のテント場から鷲羽や水晶に向かう方が多くて、黒部五郎に向かう方はとても少ない印象でした。
五郎小舎に隣接されたテント場はそれほど広くは無いですが、平坦で2段仕様になっています。立地的に鞍部なので展望はそれほど良くありませんが、薬師岳や笠ヶ岳は見ることができます。
五郎小舎に近い上段はかなり大きな石もあって少し張りづらい印象ですが、下段はフラットでテント自体は張りやすいです。
黒部五郎のカール
日本には『カール』と呼ばれる山岳地帯は数多くあります。有名どころでは
- 涸沢カール(北アルプス)
- 千畳敷カール(中央アルプス)
- 立山山崎カール(北アルプス)
- 仙丈ケ岳小仙丈カール(南アルプス)
その他、白馬大雪渓も分類上はカールとなります。
氷河の侵食作用によって形成された広い椀上の谷。山の斜面をスプーンでえぐったような氷河地形の一種。
日本にあるカール地形のすべてを見て回ったわけではありませんが、少なくとも黒部五郎のカールは日本の山岳風景において最も美しい景観のひとつと言えます。
恐竜が大地を闊歩していた時代にタイムスリップしたかのような巨石が点在する圧倒的なスケール感。
ほとんど人の手が付けられていないような無垢で透明度の高い空気感。
本当に美しい…。
黒部五郎岳の真骨頂は山頂ではなく間違いなくこの美しいカールと言えます。
黒部五郎のカールと沈みゆく白鳥座の天の川
深夜、テントから覗くと上空には無数の星々が煌いていました。しかし遠目にカールにはガスがかかっているように見えましたが、ガスが抜けることを信じて機材と飲料水を持ってカールに向けて真っ暗な登山道をヘッデンを頼りに登りました。
40分ほどで撮影地と決めていたところへ着きましたが、まだガスは滞留したままでした。ただ少しつづではありましたがそのガスも抜けているように思われました。
『これはいよいよ撮れそうだ』と感じました。
すでに小一時間ほどガスに巻かれてもはやびしょびしょの機材を拭きつつ、セッティングの最終調整を行いました。
深夜3時前、ついにガスは完全に抜け雄大な黒部五郎のカールと夏の沈みゆく白鳥座の天の川をクリアに見ることができました。
神秘的なカールと真っ暗な夜空に浮かび上がる白鳥座の天の川。
『美しい…』。
真っ暗な山中でひとり、心細さや怖さはその美しい光景を前に完全に忘れていきました。
登山をしているとそのきつい登りや蒸せるような暑さ、荷の重さに音を上げたいときがいつもありますが、山頂や展望の良いところからの美しい風景を見るといつも『頑張って良かった』と思えます。山をやられている方ならみなさん必ずそう思うはずです。今回はそれを本当にひしひしと感じました。構想からもう数年経ってしまいましたが、ようやく念願であった黒部五郎のカールと天の川を撮影することが出来ました。
星々からのインヴィテーション(Starry Night Invitation)
『星々からのインヴィテーション(Starry Night Invitation)』
深き夜にこそ輝く夜空、
深き山にこそ煌く風景、
眠りの森を抜ければ、
風が大地と夜空の匂いを運ぶ別天地。
何百年、何千年、何万年。
変わらぬ草木に、変わらぬ天空。
深遠なる招待状に、夏の十字架のサイン。
すべてをひとつに繋ぐカールのほとり。
Masterheart / Aug,2019 at starry night Kurobegorou Kar
(後編につづく)