今後の撮影についての雑感をローテンションで。
こういった内容のものはテキストよりも語りの方が伝わりやすいかと思いますので、お時間ありましたらご覧いただければ幸いです。(本編20分弱)
漠然とした霧霞
ここのところ何かと忙しくて撮影行に出かけられないのですが、時間を見つけてはプリント沼、いや、もはやマリアナ海溝かと思えるような深い深い “プリント海溝” にどっぷりと浸かっているかのようにプリント作業に勤しんでいます。
辛いのは撮影に出かけられないということよりも、限りある貴重な時間と予算を投入している割にはそのプリント作業が全然捗らないことのほうで、昨年の中頃から本腰を入れて予定していた作業がいまだに半分も達成できていないような状況です。
撮影に熱心になっているときは過去のものを改めて振り返ることはあえてしないのですが、年齢的なものでしょうか、最近はプリントの合間で過去に撮影してきたものを振り返ることも多くなりました。時間を遡れば遡るほど自己嫌悪に陥ってしまうのですが、逆に言うとそれは多少なりとも成長したとも言えなくもないな、と感じる部分でもあります。
しかし振り返ってみて漠然と思うのは…、
自問自答
山に登り始めてからはそれまで撮っていた風景撮影から北アルプスを中心とした山の写真を撮るようになって、山を愛し、そこに住む動植物たちに癒され、自分自身楽しみながら、それこそ情熱をもって取り組んできました。
山の写真、特に北アルプスのような3,000mの稜線からの圧巻の山岳風景や、朝の雄大なモルゲンロート、日没の壮大なアーベントロート、美しい星空などは写真的にもとてもインパクトの強いものが撮れるので私も積極的に撮影してきたわけですが、このままこのテーマだけにクローズアップし続けて果たして “撮影者としての成長” があるのだろうかと日々自問自答してしまうのです。
山の写真
誤解を恐れずに正直に吐露すれば、このようなインパクトのある雄大な山岳写真と言うものは誰でもその現場に登ってレンズを向けさえ出来れば撮影できるものになります。もちろん山岳写真の難しいところ、過酷なところはその時間その場所に、撮影機材を担いで行って『撮影すること自体』なわけなので、実際はそう軽々しく “誰でも” 撮れるものとは言えないことは今まで山を撮影してきた私でも重々理解しています。理解した上であえてそう言っているのです。
しかし、どこか胸の中の奥底にある『誰も撮ったことが無いような “すごい” 山岳写真を撮ってやろう』という決して無視することができない “野心”の存在。別にそれ自体は悪いことではないと思いますし、その野心が大きな原動力、大きなモチベーションのひとつとも言えるものでしょう。そしてその野心があるからこそ過去多くの方々によって撮影された素晴らしい山の写真があるわけでもあります。しかしその野心が何となく今の自分を邪魔していて、この先に行かせてくれないと感じるのです。
山の写真は “山の刹那的な表情” を捉えることが大きな魅力と先述しましたが、裏を返せばそれは撮影者の技量やセンス、知識によるものも大切である反面、それよりも『その時の表情次第』とも言える部分もあるわけです。さらに裏を返せば (つまり表ですね) 撮影者の自然美を捉える研ぎ澄まされた “観る目”、いわゆる観察眼よりもその『画』的な良さだけを求めてしまう嫌いがあるように感じるのです。
少なくとも私はそうでした。
今までの私はその撮った写真の『画』的なインパクトや色彩を重視してばかりいたのではないか、と過去の山の写真を振り返ってみて思ったのです。
美とは
『美』とはなんでしょうか?
もちろん人それぞれ感性が異なるのでその定義も様々なわけですが、私にとっての『美』について、ひとつの分かりやすい例として『花』を挙げてみます。
先ほどの『画』的な良さだけを求めるのならば、人によって丁寧に育てられた花壇や温室などの環境が整えられた植物園に咲く花々、もっと言うならば生花店に並ぶ整えられた花々と言うことになります。色彩も濃くて鮮やかで、形もきれいです。
しかし私が『美』を強く感じるのはそういうものではなくて、野山で懸命に健気に咲く山野草たちにより強く『美』感じます。もちろんそういった山野草たちは決して『画』的には美しいものではないかもしれません。時には雨風を受け、時には容赦なく直射日光(紫外線)を浴び、時には虫の餌食になり、それでも懸命に咲くその『自然の生命力』、そういったものに『美』を感じるようになりました。若い頃はなかなか気づけなかったようなものでもあるので、そういったものに魅力を感じるのは年齢的な理由もあるのかもしれません。
生命力を写真に収める
実はこの美しい『生命力』を写真に収めるのはとても難しいことだと思っています。今まで積極的に撮影してきた山の写真というのは山が魅せてくれるその素晴らしい景色をある種 “受動的に” 撮影するようなものと言って差し支えないものですが、自然の生命力を写真に収めようとするならば自然の声に耳を傾けるようなある種 “能動的に” 撮影する感性みたいなものが必要なのではないかと思っています。
もちろん今まで撮影してきた山の写真こそその『生命力』が現れた写真そのものであるとも言えますが、私は果たしてそこまで深く自然を理解して撮影していただろうか…と改めて思うのです。単純に『絵柄』のインパクトだけを求めていただけなのではないだろうか、と。
そう感じるのです。
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