山を読む(山岳小説に息づく風景)①新田次郎編

COLUMN

今回は山に纏わる小説、いわゆる山を舞台とした山岳小説をいくつか紹介したいと思います。普段から山を登っておられる方はもちろん、まだ山を登ったことがない方やこれから山に登ってみようという方にとっても作者が紡ぎだす美しい文脈が山の情景に誘ってくれるのが山岳小説の素晴らしいところ。

人はなぜ山に登るのか…、
そして人は山に何を求めるのか…。

多くの作家がこの普遍的なテーマに対峙していますが、今回はそんな偉大な作家たちの作品を取り上げていきたいと思います。今回は山に関する作品数もかなり多い作家、山岳小説といったらこの作家と言えるであろう新田次郎著の名作を取り上げていきます。

※本記事には多少なりとも “ネタバレ” の要素も含まれていますので、ご注意ください。あらすじなども含めて内容に一切触れたくないとお考えの方はこの先はお控えください。
何卒よろしくお願いいたします。

(目次)

  • 『槍ヶ岳開山』新田次郎著
  • 『孤高の人』新田次郎著
  • 『八甲田山 死の彷徨』新田次郎著
  • 『剱岳 点の記』新田次郎著



『槍ヶ岳開山』新田次郎著

まず最初に紹介するのは北アルプスの象徴ともいえる鋭鋒槍ヶ岳の初登頂を果たした播隆上人の激動の半生を扱った『槍ヶ岳開山』という作品。文藝春秋にて1968年に発表され、単行初版発行が1977年ということなので、新田氏の作家として脂が乗り切った時期の作品と言うことになると思います。

あらすじ

百姓一揆にまきこまれ、過って妻である『おはま』を刺殺してしまった若松(のちの播隆)は故郷を去り出家。贖罪のため厳しい修行を自らに課し、念仏行者としての日々を送る。
そんな播隆にやがて笠ヶ岳再興の話が持ち上がり、その山頂で見た亡きおはまの姿。大成功に終わった笠ヶ岳再興により播隆は僧侶としての名声を得、その後おはまの光を追うように播隆は前人未到の槍ヶ岳へ。

笠ヶ岳(2015年8月撮影)

解説・感想

北アルプスの名峰『槍ヶ岳』の初登頂を果たした播隆上人
その初登頂は三郷村小倉(現在の安曇野市)の登山道開削者である中田又重(作中では又重郎)とともに1828年(文政11年)でした。本作品はその槍ヶ岳初登頂を中心とした播隆上人という浄土宗の一念仏修行僧の半生の物語。

槍ヶ岳に登ったことがある方は殺生ヒュッテ直下にある『坊主岩小屋』の存在はご承知かと思いますが、この岩穴は別名 “播隆窟” と言われ、かつて播隆上人が開山の際に籠ったとされている岩穴です。

播隆は浄土宗の僧侶としていわゆる事業僧でも檀家僧でもなく、当時としても希有であった一心不乱に念仏を唱える本当の意味での “念仏修行僧” でした。時には乞食坊主と罵られ、石を投げられ、それでもなお念仏を唱える念仏行者。

そんな播隆が亡きおはまの幻想に許しを請うためにひたむきに山頂で名号を称え、その “ひたむきな気持ち” になるために山に登ると説きます。一日一食という戒律を守るような厳格な修行僧である反面、播隆は山においては案内人の一人であった穂苅嘉平を信頼し、彼が用意してくれた山中食の餅を一度は拒むものの、嘉平の頑固な熱意に折れて食しました。その時の嘉平の「山っちゅうものは、本当に厳しいもの。山に入ったら先達の言うことを聞け」という言葉。現代の登山においてもやけにリンクするこの言葉は、今も昔も山の厳しさに変わりはないことを表しているのではないでしょうか。

作中ではその他、播隆の真の弟子とも言える徳念と “播隆の弟子” と言う立場だけを欲する他の弟子との確執や、播隆とは性格も生活もまったく正反対の弥三郎との百姓一揆の頃からの着かず離れずの距離感。槍ヶ岳山頂部にかけようとする鉄のクサリが在らぬ思惑を呼んだり、当時の飢饉に苦しむ時代情勢が播隆を窮地に立たせたり。そして最期の時、果たして播隆のおはまに対する贖罪は救われるのか、など播隆の人間として、修験者として山に対峙したきた彼の半生が生き生きと描かれています。

ひとはなぜ山に登るのか。
槍ヶ岳登頂という大偉業を通してその一つの答えを追い求めた名著と言えるのではないでしょうか。

『孤高の人』新田次郎著

続いて紹介するのはもはや山岳小説として説明不要なほど多くの方に愛された名作と言える『孤高の人』。単独行の草分け的存在、かの不世出の登山家加藤文太郎を題材とした作品です。この作品は山と渓谷社の雑誌『山と渓谷』に連載され、新潮社から1969年に出版されました。

あらすじ

主人公の加藤は地元の山『六甲山』に登ったことをきっかけに縦走登山を始めて、やがて『八ヶ岳』『北アルプス』を歩くようになる。

その一方で加藤は造船所でひたむきに造船技師を目指しながら働く一社会人。憧れのヒマラヤへの遠征費をコツコツと貯めながらやがて厳冬期の八ヶ岳や槍ヶ岳、後立山縦走などを前人未到とも言える『単独行』で踏破。やがて登山家としても名を馳せ “単独行の文太郎” と言われる関西を代表する登山家となっていく一方、家庭を持ち守るべき大切な存在が加藤を少しずつ変えていく。

当時まだまだ上流階級の特権と言われた登山界に社会人登山家として大きな功績を残してきた折、自分に憧れるという若き登山家宮村とともに自分のためではなくその若き登山家のために共に厳冬期の槍ヶ岳へ挑む。

槍ヶ岳北鎌尾根(2016年5月撮影)

解説・感想

この作品では主人公の名が『加藤文太郎』という実在した登山家の実名が使われていますが、あくまでもフィクション作品です。(本名の使用は未亡人となられた文太郎氏の奥様の御意向とのことらしいです)

ただ本作でも加藤文太郎本人による著書『単独行』を参考にしていることもあり、山行記録の部分はノンフィクション的な箇所も多々ありますし、主要登場人物も実在のモデルがあるようで、そこに小説としてのエッセンスを作家が作品に封じ込めたと言えるでしょう。

“単独行の文太郎”と関東関西でしのぎを削る登山界では有名になりはしたが、どこか不器用で山や私生活でも誤解されてしまうところからしてすでに『孤高』だった加藤。厳冬期登山のために既製品ではなく自ら創意工夫を凝らした装備を身につけ、山での食事も独自の方法論を編み出していきます。
その中の『甘納豆』や『揚げた小魚』がこの作品を初めて読んだ当時の私(登山を始めて3年くらいの時)にとっては印象的で、私自身もそれをまねて行動食に『甘納豆』と『煮干し』を食べていた頃もありました(笑)。

加藤はなぜ山を登るのか…、それも “単独” で。
加藤自身も作中でそれを自問自答します。

「汗を流すため?」
「自らの成長のため?」
「じゃあ山を止めるほどの大きな存在は自分には何がある?」

苦悩に生き、山を求め、山にすべてをかけた加藤。
そんな加藤も永遠の伴侶を得た時点で実はもう『単独行』ではなくなったのではないでしょうか。守るべきものが生まれて家族を持ち『孤独』ではなくなった時点で『単独行の文太郎』は終わっていたのではないだろうか。

私生活だけではなく実際の山へも単独ではなくパーティ登山となった最後と決めていた厳冬期登山。
北アルプス槍ヶ岳は北鎌尾根…。最期のシーンは涙なしでは読めないようななんとも悲しい、帰りを待つ人の切なさが胸に刺さるシーン。

そこは美しくもあり残酷でもある厳冬期の山。

「一面に宝石をばらまいたような大空の中に槍ヶ岳の格好をした黒いものがあった。そのように大槍は星空の中にはっきりと突出して見えていた。おそらく、その限りない星がなければ大槍は発見できなかっただろうと思った。」

これは稜線に出たときの美しい描写ですが、北アルプスで満天の星空を見たことがある方ならその美しさを思い浮かべることが出来るでしょう。そしてその美しさの裏には自然の厳しさがあります。登山を楽しんでおられる方、特に北アルプスを歩いている方にはぜひ読んでいただきたい名作中の名作です。

『八甲田山 死の彷徨』新田次郎著

1902年(明治35年)1月に起こった悲劇、日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が青森市内から八甲田山の田代に向かう雪中行軍中にあった遭難事件を取り上げた作品。雪中行軍訓練の参加者210名のうち実に199名が死亡した世界でも最大級の山岳遭難事件は国内外問わず当時大きな衝撃を与えました。

本作品は1971年(昭和46年)9月に新潮社より書き下ろしで刊行されました。1977年(昭和52年)には本作を原作とした映画『八甲田山』が公開されました。

あらすじ

ときは日露戦争直前の1902年、ロシアとの戦争に備え寒冷地における戦闘の演習や、ロシア砲撃による青森-弘前間の補給路断絶に備えて日本陸軍が雪中行軍演習を計画。青森と弘前からそれぞれ第5聯隊第31聯隊の各歩兵部隊が八甲田山に向けて雪中行軍を開始。第5聯隊は中隊編成で、第31聯隊は地元の案内人を使った比較的小規模な小隊編成としていた。

しっかりと下調べをして、行軍中も調査をしながら進む弘前第31聯隊。
それに対し雪山の厳しさを甘く見ていた青森第5聯隊。
八甲田山でそれぞれの部隊が行き合う予定だったが弘前隊が八甲田山で見たものは…。

解説・感想

雪山の厳しさ、恐ろしさを取り扱った作品は数多かれど、この作品ほどその様を見事に表現した作品はなかなか無いでしょう。もちろん時代背景的に現代とは装備がまったく違うのでその厳しさも大きく異なるとは思いますが、八甲田山と言う世界でも有数の深雪激しい山の非情とも言える冬の環境は現代でも脅威であることは間違いないでしょう。

“登山は計画する準備段階からすでに始まっている” ということは登山をやられている方ならお分かりかと思いますが、この作中でもその準備や計画の重要性について言及しています。
方や地元民を案内役とした小規模部隊という編成、
方や地元民に頼らず大隊が中隊について行くという異例の比較的大規模な編成。
案の定その歪な編成のためか青森部隊は途中で指揮権が変わって指揮系統が乱れたり、当日の未曾有の厳しい冬型となった荒れ狂う八甲田山の環境に右往左往してしまいます。これは現代社会にも言えることで、いくら有能な人材を有していてもそれを取り仕切る、指導するものが危機管理を怠っているとかれらの才能を発揮できないし、下手をすると沈没してしまう恐れもあります。

弘前隊を取り仕切る徳島大尉は私情を挟まず一見非情にも見える実に淡々と難題を克服するタイプですが、そのくらい機械的に事に当たらないと部下を守れないと考えての事でしょう。反対に青森隊を取り仕切る神田大尉の作中の名セリフ「天はわれ等を見放した。」は、いかにも弘前隊との違いを露わにしているように感じます。

雪山の豹変は人知をはるかに超えたところにあり、次々と雪原に倒れていく様はまさに地獄絵図のような描写。山岳小説としても、雪山における山岳遭難記録としても読み応えのある作品となっています。




本作を原作としてのちに映画『八甲田山』が製作されました。
どちらかと言うとこの作品は原作である本小説よりもその映画版のほうが有名でしょうか。当時映像化は不可能と言われた小説ですが、日本映画史に残る名作として今もなお語り継がれていますし、個人的にも日本映画としては最高傑作のひとつではないかと思っています。原作はとくに全編に渡ってとても重苦しい作品と言えます。

作家新田次郎氏は伯父に元中央気象台長である藤原咲平博士を持ち自身も気象庁の技官であったという経歴もあり、その気象の分析力がいかんなく発揮されている科学的見地の強い山岳小説、雪山登山のひとつのバイブル的作品とも言えるかもしれません。

『劔岳 点の記』新田次郎著

今回最後に取り上げるのは、日露戦争後の明治末期、陸軍参謀本部陸地測量部によって行われた立山連峰山岳測量を題材とした作品『剱岳 点の記』。前人未到と言われた劔岳山頂に三角点設置の命を受けた測量官らの活躍を描く。
文藝春秋より1977年に出版され、2009年には映画化され公開されたのは記憶に新しい。

あらすじ

立山信仰の象徴『立山曼荼羅』では針の山と恐れられた劔岳。
前人未到、決して登れない山、そして登ってはならない山、劔岳。

測量官柴崎芳太郎はその頂に三角点設置の命を受け、案内人の宇治長次郎らとともに劔岳登頂に挑む。しかしそこには切り立った断崖絶壁だけでなく厳しい山岳環境、地元住民の反発、そして発足して間もない日本山岳会との登頂争いもあった。
果たして劔岳の初登頂はなされたのか…。

剱岳山頂(2013年8月撮影)

剱岳山頂からの眺望(2013年8月撮影)

解説・感想

時代背景的には先述の『八甲田山 死の彷徨』と日露戦争を挟んだ時期。まだまだ軍の力を国民に示さんとしていた時代ではないでしょうか。そんな陸軍に属する測量部は文官とはいえ軍の命令は絶対というのが暗黙の了解。

この作品はどちらかと言うと主人公が前人未到と言われた山を初登頂しようと奮闘する物語と言うよりもそういった軍を含めた時代背景や世情、そして立山信仰とそれによって栄えてきた地元芦峅寺との関係、まだ発足したばかりの日本山岳会との初登頂争い、地図を作るという使命感や責任感など、
様々な感情や関係性が主体となって複雑に絡み合って物語が進められていきます。

室堂の玉殿の行者が言った『雪を背負って登り、雪を背負って下りろ』という未踏の山の攻略のヒント。なぜ未踏の山なのにそんな言葉が言い伝えられているのか…。立山信仰とその信仰の起こる以前から真に自然と向き合ってきた修験者たち。建前と真実はいつの時代も表裏一体なのではないでしょうか。

なぜ山に登るのか。
主人公柴崎なら表向きならば「測量のため」と一言で済ますかもしれませんが、彼自身も案内人の長次郎と同様になにより “山が好きだった” のではないでしょうか。柴崎の妻葉津よは、しっかりとその夫の気持ちをわかっているような描写で間接的に読み手に伝えてくれています。

地図を作ることのたいへんさ、野山を駆け回って測量することの厳しさがこの小説ではしっかりと表現されています。現代では手軽に地図、地形図、山地図を見れますが、この地図を作るのにどれほどの犠牲を払ってきたのか。

本作品の著者のあとがき「越中劔岳を見詰めながら」では新田氏が本作品の執筆の際に下調べした貴重な情報も公開されています。特に主人公の測量を支えた案内人の宇治長次郎は現代でもお手本とされるほどの謙虚さで自らを犠牲にするような登山ガイドだったとのことで、彼を主軸とする大山のガイドはこの長次郎の背中を追って成長していったとのことです。

本作品は今回取り上げた作品の中ではもっとも史実に忠実な、新田次郎氏の気象観測経験や膨大な資料を駆使したリアルに近い小説なのではと思います。ノンフィクション的に淡々と物語が進行する一方、最後は当初ライバル視していた日本山岳会こそが柴崎らの想いの良き理解者だったことが皮肉と言うか、現代社会の “官” “民” の対比のようなアイロニーを感じます。

山頂や登山道などでなんとなく目にする三角点
この三角点には多くの苦労や犠牲、そして想いが込められているのです。

・ ・ ・

以上、今回取り上げた作品はどれも史実を元にしたノンフィクション的な小説でどれも読みごたえのある作品です。『八甲田山』以外は主人公がそのまま実名で登場しますし、先述のとおり『劔岳 点の記』は新田氏の当時の気象予測を分析した史実に近い作品ですが、こうして各作品を読んでみると史実をもとにした新田次郎作品はその出来事に対しての新田氏の独自の考察や思想が多分に含まれていると感じます。

実際に起こった事柄だけを書いても“小説”として成り立たないし、それは歴史書・報告書の意味をもちます。小説作品である以上そこにある種のドラマ性を持たせなければいけません。
登場人物の心情や思惑、想い。
なにより山登りを愛する一人でもある著者の想い。
とくに『八甲田山』や『劔岳〈点の記〉』は時代背景的に日露戦争前後ということで、陸軍に対する新田氏のアイロニー的表現が根底にあります。

今回取り上げた作品を読んでから、または北アルプスを歩いた後に読んでみたりすると、また違った山の表情が脳裏に浮かんでくるのではないでしょうか。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。