私的コラム:現代情報過多時代におけるコミュニケーションツールについて

COLUMN

筆者は本ブログとは別に動画共有サービス(YouTube)やソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、具体的にはTwitterとInstagramのアカウントを展開しています。どのサービスも現在とても多くの方々に利用されているツールですが、筆者はここのところ積極的な活用を控えている、または投稿をほとんどしていない状況です。そのような状況になったことで最近学んだことがありますので、たまには趣向の違うこのような記事も残したいと思いました。

“情報過多時代”とも言われて久しい現代。
今回はそんな時代を象徴するコミュニケーションツールとも言えるソーシャルメディア、とくにソーシャルネットワーキングサービス(SNS)について、私なりに考えてみたいと思います。

少しばかり長い記事になりましたが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

(目次)

  • SNSを始めたきっかけ
  • 某感染症拡大による自粛
  • 恐るべきSNSの拡散力
  • SNSを使ってみた印象
  • SNSと距離を置く理由
  • 今後SNSとどう向き合うか
  • 内にこそ真理在り



SNSを始めたきっかけ

本ブログを立ち上げたのは2019年の6月。
立ち上げた理由云々は今回の記事の趣旨ではないのでここでは割愛しますが、もちろん立ち上げ当初は当然ながら誰にも見ていただけませんでした。始めてから1年くらいは具体的な記事の本数を決めてそれを毎月定期的に上げていきましたが、なかなかビュー数(訪問者数)は上がって行きませんでした。

もちろん誰かに見てもらいたいというよりは、こういったブログは自身の記録のためであったり備忘録として、または表現方法のひとつとして個人的にやりたかったことなのでそれほどビュー数は気にしてはいませんでした。立ち上げた当時は宣伝やプロモーション的なことなどまったくしていませんでしたし、それこそ登山中でお会いした方々で興味を持っていただいた方々だけに「暇つぶしにどうぞ」的に宣伝していた程度でした。

しかしながらせっかく時間を費やして仕上げた記事は内容の良し悪しは別として自分の分身のようなもの。もっと多くの方々に見てもらえたら…と思いSNSの拡散力を利用して宣伝(いわゆる集客)しようと思い始めました。

某感染症拡大による自粛

そんな折、2020年初頭から下界では本格的に某感染症拡大の問題が始まりました。その年の春には日本でも本格的な外出自粛要請、緊急事態宣言が発令。高山や緑豊かな自然を撮影しに行きたくともそれが叶わない状況となり、在宅率が飛躍的に上がりました。

いま考えると私にとってこのことが後の写真活動に大きな影響を与えました。それまでも写真プリントはやってはいましたが、どちらかというと撮影の方に重点を置くスタイルで活動しており、プリントはどちらかというと片手間程度でした。それが在宅率が上がったことでプリント、言うなれば『作品制作』に真剣に向き合いようになり、それは平常な世に戻りつつある現在も “マリアナ海溝” とさえ言える底なしのプリント沼に没入しているような状況です。

もし世がこのような状況にならなければきっと今まで通り “闇雲な” 撮影ばかりで、こうやって改めて自らプリント制作を深く学んだり、作品制作という活動に専念するようなことは無かったかもしれません。それに撮影自体についても今までとは違った視点で自然を捉えてみたいと最近は思うようになっています。実に不思議なものです。

今後の撮影についての雑感 (美、自然の生命力)

話を2020年に戻しまして。
そんなこんなで在宅率が上がったことで始めたのが今やネットを通じての現代コミュニケーションの代表的なツールであるSNS、具体的にはTwitterInstagramでした。Twitterは前年の2019年にはアカウントだけは持っていましたが、外出自粛要請がきっかけとなってInstagramとともに2020年5月あたりから本格的に使い始めました。

Twitter|Tenma(aquilaskyart)
Instagram|Tenma(@aquila_sk_art)

恐るべきSNSの拡散力

Twitterに関しては活用当初から「私にはそもそも呟くことが無い…」と言うことでそれほど使用頻度は上がらず放置気味。それに対してInstagramは写真を撮っている者からしたらTwitterよりも扱いやすくて、こちらの方が自分には合っていました。

インターネットが無かった時代や今ほど整備されていなかった時代、自分が撮影した写真を不特定多数の方々に見てもらうにはなかなか大変な時代でした。

より多くの方に自分の作品を見てもらうには、

・どこかの写真クラブに入って共同で写真展(グループ展)を開く
・個人で写真展(個展)を開く
・公募展や写真雑誌などのフォトコンテストで入選する
・プロのフォトグラファーとして活動する
など、それはそれは大変な時代でした。

インターネットが整備されてからはそれこそ国を越えて世界中に(デジタル画像としてですが)発信できるようになりました。自らホームページ(実に懐かしい響き…)を作成したり、ブログサービスの利用を始めたりという方も多くなりました。

ホームページや今お読みのこのようなブログというのは閲覧者が記事や投稿ページを能動的に見つけに行かないとたどり着けないものでしたが、時代は進み昨今のSNSではさらに発信力・拡散力が上がり、記事をわざわざ見つけに行かなくともフィード画面やタイムライン上にフォローした方の撮ったばかりの写真が次々に、まさに雪崩のように表示されるようになりました。

私のようなアナログ人間にはまさに隔世の感があります。

その拡散力のおかげもあってか、実際に本ブログもその甲斐あってSNSのプロフィールリンクから見に来てくださる方々も徐々に増えていきました。

SNSを使ってみた印象

TwitterやInstagramを利用したことで多くの方々が本ブログのほうへ来ていただいたのはとても喜ばしいことでありましたし、良い結果を得ることが出来ました。しかし同時にSNSを使うことのデメリットを感じたのもまた事実です。

写真が “使い捨て” と感じる

そもそもInstagramは日常のちょっとしたこと、ひらめき、思い出、情報、記録なんかを共有するツールとして始まったようですが、筆者のように「自分の写真を見てもらいたい」という目的で発信しておられる方々もかなり多い印象です。しかしそういった場合ですと最新投稿は閲覧してもらえますが、残念ながら過去に投稿した写真と言うのはほとんど見てもらえないということが分かりました。

というのもホームページやブログというのはSNSとは少し違っていて、それこそ数年前に投稿した記事も検索サイトのワード検索などでたどり着いた方々が閲覧してくださるものです。これはホームページやブログを運営されている方ならわかると思いますが、記事を書けばそれが数年にわたり見てもらえる資産になるものです。ここがSNSと決定的に違うと感じました。

SNSは投稿してわずか数時間の賞味期限、ブログ記事は数年に渡る資産
どういう目的でSNSを活用するかによるとは思いますが、投稿した写真がフィード画面上に表示されて1回だけ「いいね!」を押されてそれで終わり、というのは1枚入魂で写真をやっている者にとっては少し寂しいと感じるところです。もちろん『その程度の写真だ』と言われればそれまでですが、実際私は1枚の写真作品(プリント)を仕上げるのにそれ相応の労力と時間を費やしているつもりです。

つまり、そもそもSNSという文化自体が私の求めるものとそぐわない文化であったということです。私にとって写真作品はアートのひとつであり、単なる記録以上の意味合いを感じています。
それは記憶の表現であり、自然が魅せてくれる芸術そのものであり、尊い文化のひとつであると思っています。

インパクト勝負になってしまう

SNSを利用する人にとって、

「いいね!」をいっぱい貰いたいもっとフォロワー数を増やしたい!
と思うことは悪いことではないし、人間ならば当然の理でしょう。

『承認欲求』と聞くと悪いイメージを持つ人もいるかもしれませんが、この『誰かに認められたい』という欲求は大小はあれどそもそも人間に備わった欲求のひとつと言えると思います。と言うよりはこの人間社会で生きていく上でどうしても否定できない欲求です。考えようによってはこの『承認欲求』があるからこそ、多くの商品・サービスの向上につながっているという側面もあろうかと思います。それこそ誰もいない山奥で一人、悟りを開いたり完全に自給自足生活を送るなら別ですが…。

しかしその『いいね!』や『フォロワー数』を獲得するために自分本来の写真表現を捻じ曲げてしまうのは本末転倒なような気もします。

SNSという性質上、どうしても写真がインパクト重視になってしまいます。それはタイムライン上やフィード画面上には無数の写真が上がってきては流れていくからで、そのなかで閲覧者の目を引くにはそれが “足し算” であれ “引き算” であれインパクトが必要だからです。残念ながらそこでは絶妙なトーン表現、微妙で繊細な色表現、良く練られた構図というものを吟味し、鑑賞する時間など無いからです。そもそもあのスマホの小さな画面でそれらを表現すること自体が厳しいでしょうし、少なくとも私が表現したいことを伝えるにはデバイス的に無理があると思いました。



SNSと距離を置く理由

私は現在、SNSとはある程度の距離を置いて活動しています。
それはいくつか理由があります。

目が悪くなった

実はこれが最も大きな理由で、それによる身体の不調も覚えたからです。
SNSの活用当初、スマホ依存とまで言いませんが少し時間が空いたらスマホを見て、SNSを見て、指で画面をスワイプする自分。姿勢は当然ながら前かがみ、小さい文字を懸命に追う目。
これでは目が悪くなるのも当然でしょう…。

とくに写真を撮っている者からしたら『目』はとても大切なもの。
幸い私は写真を撮影するときは眼鏡をかけませんが、眼鏡をかけながらファインダーを覗くのはかなり大変だとも聞きます。このまま行けば間違いなく眼鏡のお世話になってしまいます。歳も歳なのでそもそも老眼鏡になるかもしれませんが、少しでもそれを先延ばしにしたい、という思いがあります。

ブログが独り立ちし始めた

SNSのおかげか、記事を定期的に上げているからか、ありがたいことに最近は毎日多くの方にこのブログを見ていただけるようになりました。検索サイト等における記事掲載順位の基準、これは明確には提示されていません。しかし良質な記事をあげ、多くの方に見てもらえればもらえるほど順位が上がってゆくシステムであることは良く言われていることです。

もちろん私のブログなど底辺中の底辺。
貴重な情報や読者様のお役に立ちそうな情報など無いほぼ自己満足的な、自己主張の塊のような内容ばかり…。

ブログが独り立ちしたと言ってもようやく人様の目にチラホラ入るようになった程度だと思います。私は本ブログがきっかけでこの美しい日本の自然美に、登山に、星(天体写真)に、写真に興味を持っていただける方が少しでも増えればとの思いがあります。それがようやく朧気ながらも形になり始めていると感じています。

もちろん私のSNS投稿などいわゆる “バズッた” わけでは無いですし、ほんの一握りの方々に興味を持っていただき、リンクを通じてこのブログにも目を通していただけるようになったというくらいですが。

自分の活動に専念したくなった

某感染症拡散抑制のための自粛がSNSを始めた大きなきっかけとなりましたが、先述の通りそれと同時に撮影遠征に行けなくなったことで自宅に籠って写真のプリント作業を本格的に再開するきっかけにもなりました。

作品制作の奥深さに改めて触れてみて、そして学んでみて「やはりプリントは奥が深い!」と再びのめり込んで行きました。こうなったら最後、どうも私はある事に集中するとそればかりに注力してしまう悪いクセがあるようで、もはや撮影遠征など “そっちのけ状態” となりました。

巷ではよくSNSの良くない点として、他人の充実した日々をタイムライン上で見せられると『自己肯定できなくなる』ということが挙げられています。私の場合ですと例えばInstagramのフィード画面上では山 (多くは北アルプス) に行かれている方々がとても多いので、その登山において今まさに撮影された美しい山の写真が次々と流れてきます。

しかし私はその投稿を拝見して、
「美しい!素晴らしい!」とは思っても、
「羨ましい…」とか「あぁ自分も撮影に行きたい…」とは全く思いませんでした。

それは自分は自分で専念したいことがあったからで、そのことにさらに精力を注ぎたいと思っていたからです。

『Tapete Luminus』

『春を待つひと』

『Benedictio Aurea』

今後SNSとどう向き合うか

最近では『SNS疲れ』『デジタルデトックス』『スマホ断ち』など現代の溢れんばかりのデジタル生活から距離を置く方々も増えてきているようになりました。もちろんそれが絶対的に正しいとまでは個人的には言いませんが、ようはその “扱い方” “接し方” が問題だと改めて学びました。

一日中スマホばかり気にしてしまう
一日に何回もSNSを見ないと気が済まなくなる
タイムラインが気になる
フォロワー数が気になる
みんなから取り残されるのではないか
一時私もこのような状態になりかけましたが、これでは完全にSNSの罠に嵌っているようなもので、デジタル生活に振り回されていると言えます。

しかし一方でこのSNSをうまく活用している方々も多くいらっしゃいます。やはり自分の写真(あくまでデジタル画像としてですが)を多くの人に手っ取り早く、いわゆるポートフォリオ的に見てもらうにはSNSやホームページ、ブログなどは今や欠かせないツールですし、リアルタイムな情報収集においても重要なものになっています。ビジネスとして活用されている方も非常に多いことでしょう。

幸い、私はSNSから少し距離を置くことによる禁断症状的なものは一切無く、それこそスマホが無くても困らない人間だったようです(笑)

様々なことを鑑みてSNSにおいて現時点で私に出来ること、やるべきことはすでに終わっていると感じています。

内にこそ真理在り

内へ…、内へ…。

私はあらゆる作品作り、何かを作りだす、何かを生み出す源泉は『自らの中にのみある』と思っています。例えば絵を描くときに今持っている絵筆をどのようにカンヴァスに滑らせるべきか、誰も教えてはくれないし、詩を紡ぐときに言葉を生み出すのは自分自身でないと意味が無いと思っているからです。

『内にこそ真理在り』
本ブログではあまり私的なスピリチュアル関連の話題や記事を投稿する方針ではないですし、その方面は非常に繊細でプリミティブなものなので公の場においてそのような内容はあまり相応しくないと思っていますが、要は何かを表現したい、創造したい、作り出したいならばどんどん意識が外側ではなく内側に向いていくはずだという持論を持っています。

誤解を恐れずに言えば、世間一般では『内向的な人間』よりも『社交性があって外向的な人間』のほうが評価されるような風潮があります。『自分の殻に閉じこもる』という言葉は良い意味で使われることはまずありませんが、何かを生み出そうとするとき、つまりクリエイティブな状態のとき、人はどんどん自分の中の深いところまで意識を集中し、答えを導きだそうするはずです。なぜなら自分の中にしか答えが無いからです。

現代は情報が多すぎる嫌いがあると個人的には常日頃感じています。その中から自ら取捨選択していかないと、とてもとても抱えきれない膨大な情報量です。その多すぎる情報量がときにその『内への意識の旅』を阻害するようなイメージがあります。私はこの旅を自ら “Voyages for eternity” と呼称し、創作における概念として掲げています。内なる意識は宇宙と同等に永遠なる存在だからです。

最近になって学んだこと

世界は常に『自分中心』のはず。(いわゆる “自己中” と言う意味ではありません)
他人のことはさて置いて、まず “自分は” 何をしたいのかが大切で、その先に伝えたい他人がいるはずです。

この自分中心の世界において、他人が自分より前に来ることはありません。目の前に広がる世界はあくまで自分の世界なのですから、主語は常に “自分” のはずです。

今回、改めてSNSから距離を置いたことで学んだことです。

 

最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
今回の記事は以上になります。