今回は20世紀初頭、フランスはパリの写真家であるウジェーヌ・アジェを掘り下げてみたいと思います。移ろいゆく激動のパリを撮り続け、亡くなった後にシュルレアリストたちに大きな影響を与えたことで再評価された写真家と言われています。そんな彼の波乱に満ちた半生をかるく辿りながら、寡黙な彼が写真で語った矜持を取り上げてみたいと思います。
- はじめに
- 波乱なアジェの半生
- パリを撮り続ける日々
- 第一次世界大戦勃発
- 最晩年、遅すぎた写真家としての評価
- 寡黙で実直なアジェの写真に潜む “表現者” としての芸術
- “今”もここにある写真家の精神
はじめに
前回のニューカラーに関する記事から返す刀で今回はアジェである。写真史に精通されている方々にとっては当然ながらとても著名な写真家であり、きっと今もなお彼の写真のファンは世界中に多くいるに違いないであろうし、彼の写真に影響を受けた人も多いだろう。しかし一般的には (とくに日本では) あまり馴染みのない、それほど知られていない写真家の代表的なひとりでもあり、実のところ恥ずかしながら私自身も彼の写真に本格的に触れ始めたのは最近のことである。もちろんその名前だけは知ってはいましたがようやく先日、ジャン=クロード・ゴートラン編によるアジェの写真集のひとつ『Eugène Atget. Paris』を手に入れたところである。(当然のことながらアジェは生前、写真集というものを一切制作しなかった)

『Eugène Atget. Paris』
その写真集に寄せられたアジェが撮った1800年代後半から1900年初頭にかけてのパリの街並みに、私はその資料的な貴重性だけではない、なにか特別なものを感じた。他者から「写真家・表現者」といわれることを拒んだとされることで有名なアジェだが、皮肉にも私は誰の写真よりも彼の写真には “表現者” や “アート” を感じてしまう。
なぜだろうか。
波乱なアジェの半生
どの世界にも、どの分野にも若いころから才能に溢れ、長年にわたってその道を究めんとする人物はいる。たとえば前回のニューカラーに関する記事で取り上げた写真家スティーヴン・ショアはその典型かと思う。わずか14歳にしてかのエドワード・スタイケンに認められ、MoMAに作品が収蔵されたのであるから、写真界においてまさに彼は “神童” と呼ぶに相応しいかもしれない。
しかしアジェは違う。
幼少期~青年期
ジャン = ウジェーヌ・アジェは1857年にフランスはボルドー近郊、ドルドーニュ川近くのリブルヌで生まれた。父親は馬車の整備工として働いていたが、アジェが5歳のころに一家でボルドーに移ってからまもなく両親と死別し、孤児となってしまった。彼を引き取った叔父のすすめで神学校にすすんだが中退し、商船の乗組員となって見聞を広げながらヨーロッパをはじめ、北アフリカや遠く南米まで旅をした。
パリに戻った若きアジェはかねてより志していた演劇俳優への夢を果たすためにフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール) を受験するも失敗。当時まだフランスでは義務であった兵役につきながらも翌年の受験には合格したが、兵役との両立に断念し、演劇学校を中退。その後に地方回りの小さな劇団の役者となった。アジェ、24歳のころである。
役者生活とヴァランティーヌとの出会い
小さいながらも劇団の役者という夢がかなった形にはなったが、残念ながらアジェは脚光を浴びることなく端役ばかりで10年あまりを過ごした。華々しくプログラムに名前が掲載されるわけでもなく、生活も苦しかったといわれる。決して役者として成功したわけでかったようである。
しかし30歳手前のころ、彼にとって大きな出会いもあった。
それがその後に彼の生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォスとの出会いである。10歳年上の彼女には当時8歳になる息子もいたが、ふたりは惹かれ合い、やがて生活を共にすることとなった。ふたりとも旅回りの俳優ということもあり、さまざまな街をまわりながら共に興行をおこなった。
ヴァランティーヌはもともと芸能一家でもあり、キャリアは無名のアジェよりも圧倒的であり、それもあって劣等感に苛まれたかはどうかは定かではないが、アジェは1887年に役者をやめてしまった (諸説あり)。興行を続けるヴァランティーヌとしばし離れ、アジェはパリにあった住居も手放してひとり地方へと移ったとされている。
画家志望失墜から写真家への道
その後の数年間、地方でどのような暮らしをしていたかは定かではないという。もともと当時から有名というわけではない、いわゆる一般人であったから細かな経歴が残されていないこともアジェの特徴でもあるし、そもそもが寡黙な性格であったらしい。
1890年にパリに戻った彼は、画家になろうと決心して、絵を描き始める。主に印象派のような風景画を描いていたが (実際に木を描いた油彩画が残っている)、努力も空しく画家の道はそうそうに断念してしまった。
しかし1892年、その経験があってか35歳となった彼は自宅の玄関ドアに『芸術家のための資料』という看板を掲げて、画家たち (その中にはモーリス・ユトリロもいたとか) のための資料としての写真や、絵画の複写をおこなう個人事業をスタートさせた。1897年、40歳を過ぎたころからいよいよ彼は写真でパリの街並みを残すことをライフワークとして始めた。写真を生業とするまでの数々の経験が、写真にどのような影響を与えたのかは人それぞれであろう。アジェほど変わった経歴の写真家もそうは多くは無いと思うが、その希有な経験こそがアジェが残した写真の大きな要素になっているように私は思う。
パリを撮り続ける日々
彼が写真に収めたのはパリの教会や裁判所、邸宅や庭園、公園などの建造物のほか、馬車や看板、道路、そして露店やそこで働く人々など。砕いて言うならパリの日常である。そのほか画家の資料的な側面にも配慮し、人が写り込むような雑多な時間を避け、早朝に撮影を行ったりもしていた。
急速に変化してゆくパリの街並みを刻銘に記録しようという試みは、この時代の大きなうねりのなかでは必然的な行為だったのかもしれない。時代はちょうどパリ万博、エッフェル塔の建設、第ニ次産業革命と大きく動き出していた時代である。もちろん写真を撮る行為そのものはアジェにとってその記録写真を購入してくれる顧客があったから、というのが一番の理由であったかもしれない。自ら写真で何かを表現しようとか、自己表現しようというためではなく、言わば生活のための切実な行為のひとつである。

アジェは計画的に隈なくパリを撮った。
彼の主要な顧客はパリ市歴史図書館で、そのほか博物館や美術館、学校など公共機関がほとんどであったとされる。彼はパリの街を隈なく歩き回り、20区あるすべての街を写真に残していると言われている。しかも彼が使用していたのは18×24cmの大型のビューカメラとそれを支える木製の大きな三脚だ。20kgはゆうに超えると言われる機材をひとりで担ぎ、歩き回り、撮影場所で三脚を立てて、暗幕を被ってピントを合わせてシャッターを切る。彼が残した写真を観ると、まるでその場の撮影中のアジェの息遣いが聞こえてくるようである。
孤独に、そしてひたむきに、しかも資料として計画的にパリを撮り、自宅に戻って撮影を終えた乾板を現像してプリントを行い、テーマ別に細かくファイリングし、それらを抱えて自らの足で営業に出掛け、そのプリントを単体または組み写真、セット販売というように顧客に合わせて販売して生計を立てていたという。努力のおかげもあって、この商売により収入は安定したようだ。夢であった役者を道半ばで諦め、画家としても成功せず、ようやく写真という世界で自分の本職を得たと本人も感じたのであろう。
第一次世界大戦勃発
1914年7月に、同年6月に起きたサラエボ事件をきっかけに第1次世界大戦が勃発し、アジェにとっても撮影どころではなくなった。60歳も間近となったアジェは撮影の気力というものも少しずつ減退してしていた時期でもあったかもしれない。1918年にはこの戦争は収束をみたが、アジェの目の前には荒れ果てた街がひろがり、今までのような美しいパリは失われてしまった。
さらに追い打ちをかけるように、それまでかわいがってきた妻ヴァランティーヌの連れ子がその戦争で命を落としたこともあって晩年には以前ほど意欲的に撮影することはなかった。そのころからプリントだけでなく、所有する原版も含めて販売するようになったのは、ひょっとして自らの死期を悟り始めたからなのかもしれない。なにより残されているアジェの筆による手紙、1920年に当時の教育・芸術省に宛てられた手紙には自らが残してきたパリの写真の記録的価値の保存を最重要視していた節がある。
最晩年、遅すぎた写真家としての評価
1925年にアジェはベレニス・アボットなる人物と出会うことになる。アボットは当時師事していた写真家マン・レイが所有していたアジェの写真に感銘を受け、自らアジェが住んでいたアパートを訪ねた。その訪問で彼女はアジェから直接作品を購入し、その後もたびたびアジェのアパートを訪れていたようだ。アジェはそのアボットやマン・レイから大きな評価を受け、アジェの写真は次第に評判となり、様々な人が彼の写真を評価し購入しはじめた。

最晩年のアジェ
しかし残念ながらそんな矢先、1926年に長年連れ添い、陰で支えてくれていたヴァランティーヌが亡くなってしまった。翌1927年、アジェは病に倒れ、妻のあとを追うように70歳の生涯を終えた。あの有名な一張羅を身に纏ったアジェのポートレイトは、パリにあったそのベレニス・アボットのスタジオで彼女の手によって撮影されたものなのである。
寡黙で実直なアジェの写真に潜む “表現者” としての芸術
彼は黙々とパリを撮り続けた。
彼は淡々とパリを撮り続けた。
彼の写真には派手さはなく、強い自己主張もなく、実直なパリの街並みが写っているだけである。
彼は自分を“表現者”であることを嫌った。そして他者から“芸術家”と呼ばれることを決して望まなかった。マン・レイは彼の写真にシュルレアリスムを感じとり、彼の死の数年前に『シュルレアリスト革命』なる雑誌に彼の写真の掲載許可をアジェ本人から得ている。しかしそれにはひとつの条件があった。それは匿名で掲載するように、ということであったという。
アジェ曰く「それは記録であって、ほかの何ものでもない」と。
皮肉なことに、その雑誌の刊行によって彼の写真は賞賛を浴び、彼は死後多くのシュルレアリストたちに多大な影響を与えることになる。
彼の残した写真に、私は彼の寡黙で実直な “人となり” も一緒に写り込んでいるように感じるのだ。その写真の表面的な部分にはパリの街が、パリの人々が写っているだけではあるが。もちろん彼独特の撮影方法や技巧もあったかもしれないし、彼は撮影する時間や時期というものにも拘りや工夫をもっていたことは想像に難くはない。
しかしどうだろう。
写真の本質は『写真を撮る人』と『被写体』の両方であると私は思う。『被写体』だけでは写真は生まれないのである。彼の写真には彼の生きてきた波乱に富んだ半生と、それに伴う数々の経験、思い、そして信念や感情が、本人が隠そうにも匿名にしようとも失われていくパリの街並みとともに写り込んでいるのである。あの時代に、あのパリという街に、ジャン = ウジェール・アジェという不器用で寡黙な、成功とは無縁の不世出のひとりの男が、大きいカメラと三脚を携えて間違いなく存在していたのである。
表現者としての矜持。
アートとしての本質。
写真をはじめとした芸術には小手先の技巧やテクニック、知識はあるかもしれないが、それらを超えた先にこそそれらはあるのではないかと、アジェの写真を観ながらそう私は感じるのである。それは本人が拒否しようとも鑑賞者に伝わるものなんだと私は思うのである。
でも天国のアジェはこう言うだろう、
「それは記録であって、ほかの何ものでもない」と。
“今“もここにある写真家の精神
19世紀初頭に活躍したドイツの哲学者ヘーゲルは、精神が芸術・宗教・哲学の領域で自分自身のことを完全に表現し、また理解する段階のことを『絶対精神』といっている。いわば個々の意識の先にある、ある種の究極的な領域である。
芸術家に限らず、すべての人の意識(または精神)は肉体という舟が尽きても時間と空間を超越した存在であると私は思う。時間と空間という枠組みを超えた存在だからこそ “眼球” などの物質的感覚機能では実体を捉えることができないものなのである。多くの芸術作品が、それを生みだした芸術家が亡くなった以後も残り、それがその後の時代の人々にも影響を与え、そして生き続けるのはそのためであると思う。我々は作品の表面的で物質的な側面を見ているようで、その実はその制作に携わった芸術家の意識(精神)そのものを感じとっているのである。私は素晴らしい作品というものはそういうものを感じられるものなんだと思っている。
今回の記事は以上になります。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。



